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Novels

​唯一の楽しみ

 ある町に、フミという一人の老婆が暮らしていた。

 フミは孤独だった。町には誰一人知り合いがおらず、家族もいないので、余生は退屈な毎日の繰り返しであった。テレビもパソコンも持っていなかったし、これといった趣味もなく、だいいち趣味をやる体力も気力も財産も、もう残っていなかった。

 唯一の楽しみといえば、毎日届く新聞を読むことであった。フミの生活は新聞を中心に回っているようなものだった。朝起きて、新聞の来る頃になったら玄関で配達屋を待ち伏せる。ことん、と郵便受けに新聞が落ちる音がしたら、ドアの向こうの配達員に、ご苦労様、と言って郵便受けを開け、新聞を受け取る。部屋に戻って、受け取った新聞をいそいそと床に広げ、おもむろに老眼鏡をかけると、右の端から順番に、一字一字、くまなく活字を辿る。何時間もかけて、全ての記事をじっくり読む。といっても昼頃には大体読み終えてしまうので、新聞についているクロスワードなんかをして暇をつぶす。夕刊の時間になるとまた配達屋を待つ。郵便受けからことん、と音がする。ご苦労様と言って新聞を受け取る。新聞を読む。寝る。また朝が来て、日刊を待つ。新聞を読む。夕刊が来る。読む。寝る。その繰り返し。

 単調な生活でも、フミの心はにぎやかだった。政治家の失言に憤慨したし、虐待死した子どもを憐れみ、祈った。地元の若者の活躍に喜んで、差別され続ける人々の苦悩を思い悲しんだ。心の内が代弁されているコラムを読んでスッキリしたり、社説に首がちぎれるほどうなずいたりもした。フミには家族がなかったが、一家団欒の四コマ漫画を見ると和やかな気分になった。一方で子育てに悩む母親の心情や不登校の特集なんかを見ると、家庭を持つというのは楽なことではないなとしみじみ思った。部屋の中にいながらでも、想像の中で世界中を旅できたし、たくさんの演劇も観に行った。さまざまなアート作品にも出会うことができた。

いつも新しいニュースに触れられるので、外に出なくても新鮮な気持ちになれた。退屈を紛らわすには十分だった。寂しさを感じることもなかった。

 

 そんなふうに暮らして数年ほど経ったある日、いつものように新聞をくまなく読んでいると、奇妙なニュースを発見した。「新聞配達はロボットにお任せ」という記事だった。実装はもう少し先になりそうだ、と書いてある。

いつかうちにも、ロボットが新聞配達に来るのかしら、と思うと、なんだか可笑しくて思わずにやりとした。フミはふと、そういえば、いつもうちに新聞を配達しに来ている人は、一体どんな人なのかしら、と疑問を抱いた。一度気になりだすと、どんどん興味が湧いてきて、確かめてみたくなった。

 

 翌朝、フミは玄関で、配達屋が来るのを待ち構えた。期待に心を躍らせながら、でも身一つ動かさず、少しの音も立てずにじっと待っていた。しばらくすると、郵便受けから、ことん、と音がした。フミはおそるおそる、扉を開けた。

そこで見た光景に、フミはぎょっとして、声にならない悲鳴を上げた。なんと玄関の先にいたのは、白くて曲線的で無機質で、いわゆる近未来的な、しかし年季が入っていてうす汚れた———ロボットだった。新聞で見た、まだ実装されていないはずの、未来のロボットの姿そのものだったのだ。フミは、目を疑った。何度も目をこすったが、見間違いではない。頬をつねってみる。痛い。夢でもない。

 ロボットが去っていくのを目で追っているうちに、フミはいつの間にか外の世界へ踏み出していた。そこでまた仰天した。数年ぶりに見る外の景色は、フミの記憶にあるものとは全く違っていた。かつての活気のある町はそこにはなく、目の前にはただ、貧しい荒れ地が広がっているだけだった。草木は枯れ、地面は荒れ果て、建物も崩れかけており、そのうえ、人間という人間が、一人残らず姿を消していた。フミは混乱した。一体何が起こっているのか分からなかった。

 

それもそのはずである。フミが家に閉じこもっている数年の間に、外の世界では未知の感染症が蔓延し、人間がほとんど死に絶えてしまっていたのだ。しかし外界との接触を一切断っていたフミだけは、生き延びた。フミ以外誰もいない町で、新聞配達のロボットだけが、プログラム通りに動き続け、毎日フミのもとに、新聞社に残っていた在庫の新聞を届け続けていたというわけだ。そして、フミはその新聞に書かれてあることを、最新の情報だと思って、読んでいた……。

 

 そんなことを知る由もないフミは、ただただ呆然とした。しばらく口を開けたまま突っ立っていたが、ふと我に返ると、ゆっくりときびすを返し、家に戻った。郵便受けを開け、新聞を手に取り、部屋に入ると、いそいそと床に広げて、おもむろに老眼鏡をかけ、一字一字、右の端から順に、丁寧に塗りつぶしていくように読んだ。

 世界がどうなろうと、部屋の外で何が起きようと、フミにはまるで関係のないことだった。新聞を読みながら怠惰に過ごす、退屈な毎日の方が大事だった。フミにとって新聞は唯一の楽しみであり、それが正しいかどうかとか、新しいかどうかなどは、どうでもいいことだった。

 そうしてフミは、いつもと変わらぬ幸せな日常に戻っていったのだった。

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