創作=うんこ説?
うんこを我慢しながらチャリを漕ぐ帰り道、ふと、ひらめいた。
僕の創作は、「生産」じゃなくて、「排泄」なんじゃないかーーーー?
そう考えると、いろいろとしっくりくる。作るのはそれなりに苦しいけど作らないとそれはそれで気持ち悪いのはなぜかとか。なぜ作るか、何のために作るかなんて全く分かんないのに、作らずにはいられないのはどうしてか、とか。
そうか、そういうことか。僕はただ、うんこを出そうとしてただけなんだ。しかも便秘気味。そりゃあ、クリエイティブだなんだとか、オリジナリティがどうとか言われてもピンと来ないわけだ。うんこにクリエイティビティ求められてもなあ。それに、聴き手や読み手のことを考えられないのも、頷ける。だってうんこを受け取る人のことを意識して〜とか、意味分からんし。無理がある。それに便秘だからコンスタントに出せるわけでもない。
そうすると作品というものは、いい感じの素材を用意し、技術を駆使して加工し、綿密な構想のもと作り上げられ磨き上げられた、新しい、ピカピカの何かではなく、美味しいものも不味いものもむしゃむしゃ食って消化されたものたち、あるいは消化できなかったものたちの、有象無象の塊なのかもしれない。
僕の「自己紹介」という曲に、こんな歌詞がある。
「僕の名前はまだない だけど何かを生みたい」
この時はおそらく、何かを作ることを「生む」こと、つまり生産、1から何かを作り上げる、能動的な行為だと思っていたのだろう。しかし今となっては、「うんこ出したい」と言ってるようにしか思えない。うんこを出すのは「自分の意志」とかでどうにかできる行動ではないのに、コントロールできるものだと勘違いしていた。だから、コントロールできる「はず」なのにできないことがもどかしかったのだ。
こんなに繰り返し何かを作っては世に出そうとするのは、ナルシスティックな衝動なんだと思っていた。自己顕示欲の暴走。承認欲求の塊。そんな自分が、軽薄に思えて嫌いだった。だけどもしかしたらそうではなく、溜まった老廃物を出してすっきりしたかっただけなのかもしれない。いや、それはそれで、うんこを披露してることになるので、やっぱりある意味ナルシストなのかもしれないけど。しかも特殊なタイプの。
まあ、僕の作品たちはうんこにしてはちょっと小綺麗かな。いや、むしろ、うんこほどの価値があるのか?排泄ほど意味のある行為か?と問うべきか。どっちにしろ創作=排泄論はちょっと単純すぎ、乱暴すぎだとは思う。
創作=うんこ説だけでは全てを語れないとはいえども、作れない/出せないことに過剰にコンプレックスを抱かず、出せる時はもりもり出して、出ない時はまあ、踏ん張ればいいんじゃないかな、それか食物繊維を摂るか。そう考えると、かなり心が軽くなった…ような気がする。
どうでもいいけど僕はチャリを漕いでる時によくアイデアが浮かんだり、曲のフレーズを思いついたりする。逆にアイデア出ない時はチャリ漕げばいいのかもしれない。うんこ出そうだとなおよし。お試しあれ。
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